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【修正版】レオポルト・フォン・ゲルラッハ

やる夫が鉄血宰相になるようです のスレで出ていたのですが、それにつけても金のほしさよ さんにて、ドイツ語版Wikipediaのゲルラッハの記事の参考資料になっているうち、Allgemeine Deutsche Biographieの訳をやってくださった方がいたようです。飾り文字読むのきついんでそっちの訳が来るとは思わなかったという^^;

一応、私の方はNeue Deutsche Biographieの方の訳はある程度やってたので、とりあえず文章にしてみます。……って言っても、かなり怪しいところあるので微妙な気もしますが^^;
ビスマルクのことも、こっちでは載ってるので参考になれば幸いです。

謝辞 翻訳にあたって、ADBを訳してくださったハインさんに、2度にわたり有益な助言を頂きました。ここに感謝の意を表したいと思います。

なお、遥か地平線の彼方へ mit Eisen und Blut の視聴者の方にとっては激しくネタバレになるので、追記の方に本文書かせていただきます。ご了承ください。



【追記3/30】誤訳の件、修正しました。ハインさんご指摘ありがとうございました。
【追記3/30】一文抜けていたので追加しました。
【追記3/31】最後のビスマルクによる文の一部の訳に原義と違うところがあったため修正しました。
【追記7/20】第一院=衆院を、第一院=貴族院に修正。他資料より。




 
()は本文中の括弧。
[] は訳者による補足。
なお、人名については該当者と思しきファーストネーム等を付加した。

Digitale Bibliothek - Münchener Digitalisierungszentrum pp294-295

フォン・ゲルラッハ(ルートヴィヒ・フリードリヒ・レオポルト)
プロイセンの政治家、将軍。1790年9月17日ベルリンにて生、1861年1月10日ポツダムサンスーシにて没。

[一族の一覧は省略]

 ヴィルヘルム・フォン・ゲルラッハ[長兄]が早くに死んでしまったので、レオポルト・フォン・ゲルラッハはゲルラッハ兄弟で最も政治的影響力を与える存在になった。ヨアヒムスタールのギムナジウムに通った後、1803年から軍事アカデミーに移り、ジャン・ピエール・アンシヨンに教えられる。1806年戦役では士官候補生としていくつかの戦いに参加した後、彼はゲッティンゲン、ハイデルベルク、そして新設のベルリン大学で学習し、そこでのザヴィニーの歴史法学は、彼に強い影響を与えた。1812にはポツダムの政府実務研修生となり、アレクサンダー・フォン・デア・マルヴィッツと親密な交誼を結び、1813年ブリュッヒャーの参謀[の一員として]少尉となった。その後、ゲルラッハは解放戦争に参加し、リーマルスの突撃[の戦功]により一級鉄十字章を受け大尉に昇進し、彼は参謀本部[当時は軍事省第2部?]に入った。彼はそのかたわら、アヒム・フォン・アルニムのキリスト教的ドイツ談話会と、続いて封建的な「マイケーフェライ」(ここで彼はすでにカール・ルートヴィヒ・フォン・ハラーの国家の哲学のために運動した)に参加し、王太子[当時の王太子はフリードリヒ・ヴィルヘルム4世のはずだが、後の文脈からしてここはヴィルヘルム1世の方]の馴染みになった。1826年という、王子[ヴィルヘルム1世]のエリザ・ラジヴィウヴナ[ポズナン大公国総督の娘でヴィルヘルム1世の遠戚]の危機的な問題と、ヴィルヘルム1世とアウグスタ妃との結婚による解決のため[当時ヴィルヘルム1世は遠戚のエリザと親公認の交際をしていたが、エリザの血統をプロイセンの保守派は問題視し、結婚することができなかった。ヴィルヘルム1世は結局、気の進まないままにザクセン・ヴァイマル公女アウグスタと結婚した]に、[ヴィルヘルム1世個人の]副官となった。そして、王子[ヴィルヘルム1世]に従ってペテルスブルク[サンクトペテルブルクのこと。ロシア帝国首都]に4度、ウィーンに2度同行した。1830年以降、ゲルラッハは王太子の毎日の夜会に、そして「ヴィルヘルムシュトラーセのクラブ」[ヴィルヘルムシュトラーセには政府機関が集中しており、これは日本の霞ヶ関やオーストリアのウィーン、といった意味合いか](カール・フォス=ブーフ伯[タデン集会からの仲間]の夜会)に入っていた。1844年にゲルラッハは少将に昇進し、1848年になるとシュパンダウ[現在のベルリン市内。当時はベルリン郊外だった]を守る第1近衛旅団長となる。1850年になると中将になり、そのうえ公式に高級副官に任命された。1859年になると歩兵大将となり、宮廷の侍従武官長となる。

 フリードリヒ・ウィルヘルム4世との緊密な友情のため(両者とも、心からの互いを信頼していた)、ゲルラッハはプロイセンにおいて強い影響力を持った。1848年[ドイツ3月革命以降]からの政治について;時には、彼は小規模な外交官として活躍した。毎日のコーヒーの時間に行われる上奏では、ゲルラッハのアドバイスと判断は、しばしば現職の首相のそれよりも重みを持った。人々はそれゆえに、「ゲルラッハたち」の「カマリラ」[密房舎のこと]または「帳の中の内閣」と呼んだ。王の最も身近に居た者たちは、本来の権力欲が無かったため(ゲルラッハは、それにはあまりにも良心の呵責を感じるため)カマリラ[密望舎]の性質として、その『全く組織されていないこと』は特徴的であった。むしろそれどころかそれの起源は、立憲制内閣と対峙しての釣り合いに後ろから手を貸す助言者集団(文民内閣)を常に望んだ、気の弱い王[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世?]の性格のためだった。

 ゲルラッハとその弟のルートヴィヒは王権の地位の回復のために1848年11月のブランデンブルク伯の首相任命に尽力し、同様に1851年春の反抗に対してビスマルクをフランクフルト連邦議会に送り込んだ。1849年から1850年にかけての、ゲルラッハとラドヴィッツの争いは、連合憲法(王権と議会の間で合意する「自由主義的な」基本権のため、〔ゲルラッハ〕兄弟からは「ほとんどガーゲルン男爵[ハインリヒ・フォン・ガーゲルン。3月革命のときのヘッセン首相。パウロ教会での国民議会議長]の憲法」と呼ばれた)の進展と、ドイツ連邦内の不幸な戦争を回避するべく、連邦政策を全面的に断念することとなる「オルミュッツの屈辱」の締結に繋がった。[ラドヴィッツの連合案では対墺・対露戦争の危険があった]。ドイツ連邦を維持するための、オーストリアとの妥協は、彼のドイツ政策の成果であった。そのため兄弟は、1849年にフランクフルト国民議会から提示された帝冠を拒絶する上で、王に強い影響を及ぼしたのである。オルミュッツ[の講和]からパリ[講和条約]までの間、いわゆる十字新聞党[クロイツツァイトゥンク:保守党の機関紙]は王の高級副官[ゲルラッハのこと]の下でプロイセンの外交政策を、事実上支配した。;[そのため]クリミア戦争の間ゲルラッハは、世論の圧力にも関わらず週報党に対して厳しい姿勢を取り続け、ペテルスブルク[=ロシア皇帝][プロイセンから]引き離さなかった[なおオーストリアは最後に連合国に味方し、ロシアからの怒りを買った]

 彼ら兄弟にとって、この外交政策の路線の背景は、「神聖同盟」としての「三羽の鷲[プロイセンの黒鷲、オーストリアおよびロシアの双頭の鷲]の同盟」が、「ボナパルティズム[ナポレオンが輸出したとする革命思想]」に対抗すべく協調していくというものだった。歴史的な正統主義[ウィーン会議で示された]に基づく、プロイセン=オーストリア=ロシアの同盟は、英国との友好とともに、二人にとってキリスト教的な方針に沿った保守的な政策理念と見なされていた。ゲルラッハの歴史的正義に基づく正統主義を、ビスマルクは1857年5月2日の正統主義に触れる手紙の中で、言うまでもなく拒絶した。なぜなら政治というものは、外部の権力や人物の共感や反感によって推し進められるものではなく、その[共感や反感の]中に、すでに『仕えている主君や祖国への不忠の胎児が隠れている』からである、と。ゲルラッハは、これ[ビスマルクの考え]に納得しなかった。さらにゲルラッハはクリミアで破壊された国家政策[神聖同盟]に関して、彼が最後に寄稿した十字新聞記事の1つで、それを正当化した:「神聖会盟では、その取り組むべき最重要使命として、諸国民の強固な正義の再構築を認識していた。破棄されたその同盟はしかし、この使命を果たさなかった。だがしかし、このあるがままの試みは40年の平和を維持してきたのであり、それは、我らの歴史のどこにもないほどの計り知れない富と自由をもたらしたのである。その自由を誰もが当然なものではなく、秩序や合法性と固く結びついたものと考えるのならば」(1860年8月22日付十字新聞より)[1857年5月2日と30日の手紙で、ビスマルクはゲルラッハと一時的に決裂した。ビスマルクは積極的外交政策を主張し、ゲルラッハはウィーン会議で確認されたような正統主義を支持した。また、ゲルラッハにとってフランスはどこまでも『革命的』で『絶対に相容れない』存在であったが、教条主義的なものが大嫌いなビスマルクは、場合によってはフランスとでも平気で手を組む用意があった]

 内政においてゲルラッハは、身分代表者会議(1847年の連合州議会)を新しい立憲主義と結びつけたいと願っていた。ゲルラッハ兄弟は身分の代表から遠ざけておくべき第一院[貴族院]と、身分制に基づく選挙権に賛成していたが、実際に可決された三級選挙法には厳しく反対していた。王[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世]に対してゲルラッハは、憲法に宣誓するよう、また立法と新税の導入にあたっては、所轄の大臣と議員の協力を認めるよう、常に求めた。

 この並はずれた軍人外交官は、ベルリンの『覚醒運動』[18世紀の終わりからヨーロッパに起こったキリスト教の再生運動。新々教とも言える敬虔派が生まれたのもこのころ]と結びつき[タデン集会のこと]を持ってから、深いキリスト教への信仰心に満ちており、同様に、徹底して古典的な教養を備えていた。しかし何よりもこの機知に富み、ユーモアがあり、敬虔主義的で正統信仰を志向する将軍は、清廉潔白な人物であり、まさにひとりで陰謀(1857年の外交文書の盗難事件)に立ち向かった。彼の、そのときどきにおける正当なものへの視点と、政策上必要なものへの視点は、彼自身の中でしばしば衝突した。彼は主君[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世]ではなく、エリーザベト王妃にのみ継続的な影響を持っていた。[その試みは]、王の不安定な精神と同じくらい、自己の意志を貫徹する王自身の心の弱さによって妨げられていたのである。その都度彼は、自分自身に『「風変りな主君」にも、あたかもキリストであるかのように臣下として仕えなければいけない』はずだという敬虔主義的謙虚さを[言い聞かせて]納得した。ゲルラッハの政治思想・信条を「実用的ではない」と拒否したビスマルク[だが]、彼は『思考と思い出』の中で、ゲルラッハについて以下のような美しい性格を描いた。曰く、「その、かつて王が不当で不機嫌だった日々、古い教会の歌は家の夜の祈祷で歌われたでしょう:侯たちを君は頼りにしてはいけない、彼らはさながら揺りかごです。今日救いを叫ぶ人は誰でも、明日は主の磔刑を呼ぶ。しかし彼の王への献身は、自身の不機嫌をキリスト教的に吐露する間も、少しも弱まることはなかった。彼の言うところの揺らぎの国王にさえも、[彼は]自らの身体そして生命を全て捧げて尽くし、結局その剛直さが[彼に]死を引き寄せてしまったのです。[厳冬の1月というのに]数時間もの間、風と極寒の中を兜を手に陛下のご霊柩に付き従ったがために。;彼は頭部丹毒[連鎖球菌による、頭部の皮膚に発生した化膿性炎症]によって数日後に逝去しました。彼の最期は、さながらいにしえのゲルマン騎士を思い起こさせます。自ら殉じたのです」と。
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久間知毅

Author:久間知毅
和歌山の南の方出身/学生時代:電気工学→理論計算機科学/歴史小説書きorシナリオ書き,たまにイラスト担当/ニコニコ動画では語学(ドイツ語等)講座,数学講座やドイツ統一史を連載中/TRPG(クトゥルフ,ARA2E),艦これ

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